ベネズエラには希望がある・・・

飛行機がパナマに着陸すると、窓から見える滑走路は焼けるような太陽に照らされていた。私が空港内でトイレとトランジットの待合室を探して歩いていると、正面ホールで待っている若者たちが私の名前を呼んで手招きした。彼らはベネズエラ人だった。彼らも私と同様に、ここで飛行機を乗り換えて別の目的地に向かおうとしていた。そこで、スピーカーから到着便と出発便を知らせるアナウンスが流れる間、私はスーツケースを引っ張って行き交う人ごみの中で、彼らと話を始めた。彼らは私のブログを読んでいて、キューバの私たちの暮らしをよく理解できると言った。しかし、私が彼らと一緒に写真を撮りたいと言うと、彼らは浮かぬ顔で、「帰国したら問題になるから、絶対にFacebookやTwitterに載せないでね」と答えた。私はショックだった。思わず私は、そのベネズエラ人たちの顔が、権力に妥協し、いつも怯えながら声をひそめて話し、全てを隠そうとするキューバ人のように思えた。

彼らとの出会いで私は、日常生活の些細なことに至るまで全てイデオロギーによって過度に管理・監視・干渉されているベネズエラの現状を垣間見たように思えた。しかし、似ているとはいえ、ベネズエラの若者たちは、私たちキューバ人が失った権利を持っている。その1つは選挙権だ。実際に、ベネズエラ人は今日日曜日に行われる投票によって(役人のごまかしもあるが)、即彼らの国の未来を決めることができる。それは、長い間私たちキューバ人が奪われている権利だ。キューバ共産党は、巧みに私たちの政治上の選択の道を完全に断ってしまった。公正な選挙をすれば勝てないと分かったフィデル・カストロは、独裁を好み、唯一親族の弟を信頼して後継者に選んだ。それに比べれば、ベネズエラ人にはキューバ人が持っているような挫折感はなく希望がある。

だから、内部からみれば監獄でも、現在唯一ベネズエラ人が持っている権利(選挙権)を自ら放棄しないでほしい。私は、パナマ空港で出会った若者たちが選挙権を行使して、今すぐ投票に行ってくれることを願っている。そして選挙の後、いつか彼らが誰かと写真を撮ったり自分の意見を言って報復を受けたり、署名をして批判されることを恐れない日が来ることを願っている。要するに私は、私たちがキューバでできなかったことを彼らに達成してほしいと願っているのだ。

影響を与え続けるマリオ・バルガス・リョサの小説

マリオ・バルガス・リョサの文学は、私の人生に何度も重大な転機をもたらした。最初は、17年前の夏に起こった大停電と経済恐慌の時だった。私は彼の小説「The War of the End of the World(世界終末戦争)」を借りる口実で、(現在、私の夫である)イデオロギー問題で職を失ったジャーナリストと親しくなった。私は、検閲されて公共の本屋に並べられ、たくさんの人たちの手に渡って読まれたため、カバーが黄色くなってボロボロになったその本を今でも肌身離さず持っている。

私が大学に入って南米の独裁者を扱った文学の卒業論文を書こうと準備をしている時、彼の小説「The Feast of the Goat(チボの狂宴)」が発表された。私のトルヒーリョ(ペルーの街)に関する分析は、評価委員会に受け入れられなかった。彼らは、私がキューバの最高指導者は明らかにアメリカ人の政界のボスたちを誇張しすぎていると強調したことを好まなかったからかもしれない。そして2回目は、ノーベル文学賞を受賞した彼の本を読んで、私がキューバで言語学者になりたいという夢を諦めた時だった。私は、「自由に言葉を表現できない者が言語の専門家になれるはずがない。私は肩書だけがほしいのか?」と自問した。

そして、バルガス・リョサと彼の文学は、直接的・間接的に、結婚の幸福観や全体主義への嫌悪といった今日の私の考えを形作り、私の興味も言語学からジャーナリズムへ移った。

次に彼の本を手にする時、私はまた17年間、彼の影響を受け続けることになるに違いない。あるいはもう一度自分の仕事を考え直さなければならなくなるかもしれないが、今の私にはその覚悟ができている。

私たちは皆キューバ人

もう何年も前に、私はキューバから初めて出国し、ベルリンから北へ向う列車に乗っていた。すでに東西ドイツは統一されていたが、いまだに醜い傷跡が残るベルリンの壁が街を分断していた。私は仕切られた客室の中で昔機関手だった父と祖父のことを思いだし、彼らをこの素晴らしい列車に乗せて機関車を運転させてやりたかったと考えながら、向かいに座っている青年と話を始めた。

挨拶を交わすと、すぐに彼はドイツ語で「Guten Tag(こんにちは). Ich spreche ein bisschen Deutsch(少しドイツ語が話せます). どこから来たの?」と尋ねた。そこで、私は「Ich komme aus Kuba(キューバから来たの).」と答えた。

西インド諸島のアンチル列島の一番大きな島から来たというと、いつも相手はキューバのことなら知っているよというようなことを言う。「ああ… キューバか、バラデロ、ラム、サルサ。」まるで彼らがキューバについて知っているのは、当時ヒットチャートで大人気だったレコード「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」だけのように思える。

しかし、ベルリンの列車で出会ったその青年は私を驚かせた。他の人たちと違い、彼はありきたりの旅行者でも、音楽のことしか言わないステレオタイプでもなかった。彼は「キューバから来たの?フィデル・カストロのキューバかい?それともマイアミのキューバ?」と聞いた。

私は(怒りで)頬を紅潮させた。私は、これまで出会ったドイツ人のことなど忘れ、思わずセントラルハバナなまりのスペイン語で答えた。「あんた、私はホセ・マルティのキューバから来たのよ。」それで私たちの短い会話は終った。しかし、旅行の間、またその後の人生で、その会話は私の心の中にずっと残っていた。私は改めて、「ベルリンや世界中の多くの人たちが思っているキューバのイメージは現実とはまったく違う、彼らはキューバ国内にいるキューバ人と国外に逃れたキューバ人はまるで違うと考えている、あたかも2つの世界があるように」と思った。

私はそういう人たちに対して、私のブログ「ジェネレーションY」で、一貫して「そうではない」と言い続けている。どうやって彼らは国を分けてしまったのか?どうやって政府や政党や権力者は、キューバ国籍を持つことができる者とできない者を決めたのか?

このような質問に、キューバを離れた人たちは私より遥かにうまく答えることができる。この人たちは追放の苦しみを知っている。着のみ着のままでキューバを追い出された彼らは、別れた家族に二度と会うことができない。彼らの心の中にあるキューバは、分けることのできない完全に1つの国なのだ。

しかし私には、いまだにこの国の過去に何があったのか本当のことは分からない。キューバ人としてイデオロギーが違うというだけではとうてい説明できない。子供のころから都合よく削除したり歪曲した独断的な歴史の解釈を一方的に教え込まれたら、とてもそんな質問には答えられない。

幸い、教化から覚醒することはできる。それは、酸が物を腐食するように、毎日1度心の中で自らに問いかけてみるだけで十分だ。教えられたことを受け入れないようにすることなら可能だ。教化と疑問は相いれない。毎日聞かされる決まり文句に疑問を抱き始めた時から、私たちは間違いなく洗脳から解放される。ある日突然疎遠になっていた友達のことに気付くように、洗脳から解放されるためには長い時間がかかる。私もずっとそうだった。

それに関して、私はまったく普通の「小さな先駆者」だった。毎日、小学校の朝礼で私は「共産主義の先駆者、チェ・ゲバラのようになろう!」とスローガンを繰り返していた。担任の先生が「敵が攻撃してくるぞ!」と叫ぶ度に、私はガスマスクを小脇に抱えて何回も避難所へ走った。私は本当に攻撃されると思っていた。子供はいつも大人の言うことを信じるものだ。

しかし、ときどき信じられないこともあった。得てして真理を追究している時に何か論理的でないことがあると、信じられなくなる瞬間がある。そして、この論理の欠如は学校以外の場所、例えば近所や家の中でも見られた。私は、皆がマリエル難民事件で追放された親類の者を「国家の敵」と呼ぶのなら、なぜ彼から食物や服が送られてきた時、そんなに喜んでいるのか理解できなかった。

なぜ私が生まれたカヨ・ウェソの借家の隣人たちは、キューバに残した年老いた母親に仕送りする者を拒否していたのだろう?その年老いた母親は、卵を投げつけて彼女の息子を罵った人たちにも仕送りの一部を与えていたというのに。私には、それが理解できなかった。そして、そんな理解不能な痛ましい生活の中で私は生まれ育った。

だから、キューバに一度も行ったことがないベルリン市民がキューバを2つに分けて考えていると分かった時、私はすかさず反論した。私は、国内に住むキューバ人と国外に住むキューバ人を分けて考えてほしくなかった。キューバに残った者も国外へ逃れた者も、将来のキューバにとって、また現在のキューバにとって互いに必要な人たちだ。どちらが欠けても、まるで手足を失ったように、キューバは不完全な国になるだろう。どうか、私たちキューバ人を分けて考えないでほしい。

不可能なことかもしれないが、私たちが表現の自由や団体を作る権利、その他奪われた権利を取り戻すためにキューバ国内で戦っているように、 国外に逃れた人たちも奪われた権利を取り戻さなければならない。キューバに残った私たちも、国外に逃れたキューバ人も違いはない。私たちは皆「キューバ人」だ。だから、私たちを切り離そうとする人を許すことはできない。

今の私には、子供のころから教えられてきたキューバの歴史が信じられない。独断的な政府が言う唯一の「真実」の下で成長した他の多くのキューバ人とともに、私たちは目覚めた。私たちは、祖国を再建しなければならない。しかし、それは私たちだけではできない。すでに書いたように、国外に逃れた人たちはキューバに残った家族を支援し、子供たちのためにたくさんの食物を送ってくれた。この人たちは、海外で生活するためにゼロから始めなければならなかった。彼らはキューバを見捨なかった。そして、いまだに祖国を心配してくれている。国内にいるキューバ人と国外に住むキューバ人は共に力を合わせて壁を打ち破り、キューバを統一しよう。それは、ベルリンの壁とは違い、コンクリートやレンガで作られているのではない。それは、嘘と黙殺と悪意でできているのだ。

そんな夢を持つ私たちキューバ人にとって、キューバを分けて考える必要はまったくない。私たちは、純粋に、どこまでもキューバ人、キューバ人なのだ。

(2013年4月1日、フロリダ州マイアミで開かれたイベントで読まれたテキストより)

スパイシー、スパイシー(辛い、辛い)!

メキシコは中途半端が許されない。だから、私たちは何事もなくこの国を出ることはできない。それはまるで激辛のスパイス、喉が焼けるようなテキーラ、そしてギラギラと輝く太陽のようだ。メキシコでの5日間の滞在で、すっかりこの国の魅力に取りつかれた私は、もっと詳しく知りたい思いに駆られ、直ぐにフライトで次の目的地に向かいたいとは思わなかった。大寺院の廃墟から僅か数ヤード離れたところには近代的な建物が立ち並び、大通りは信じられないほど交通渋滞していたが、歩道では人々がゆっくりと平穏に歩いていた。また、私はカラフルな人々で溢れ活気に満ちたラ・シウダデラショッピングセンターで、有名なメキシコ人版画家の銅版画「La Calavera Catrina」を見た。皮肉な笑いを浮かべ、羽根飾りのついた帽子を被り、胸の骨を露出した彼女は、私の想像力をかきたてた。誰かにもらった砂糖をたっぷりまぶしたデザートは凄く甘かったが、その後出されたメキシコ料理のタマーレスのチリは涙が出るほど辛かった。メキシコでは中途半端な感覚が許されない。だから、それを好きになるしかない。

そこで、(キューバと)比べてみようと私のアズテックの旅は始まった。友人と会ったり、新聞社やラジオ局を訪ねたり、多くのジャーナリストの仲間たちと話をするため、私はプエブラからメキシコシティーまで旅をした。私は直接、メキシコ社会のプロのレポーターの報道活動の報酬とリスクを知りたいと思った。そして、私はたくさんの関係する現役のプロに会った。とくに北部のジャーナリストは命がけの報道を続けていた。彼らは、私と同じように、自由な報道と真実を伝えることに責任があると考えていた。私は彼らから多くのことを学んだ。小さい店やキオスクが密集する都心部で迷子になることもあったが、そこで人々の生活に実際に触れることができた。飛行機が着陸する前、多くの都市がそうであるように、機内から見る土曜日の夜明けのメキシコシティーは巨大なアリ塚のように見えた。早い時間にもかかわらず、すでに人々の生活が始まっていた。

ふと私は、ロベルト・ボラーニョの小説「野生の探偵たち」の一場面を見るようだと思った。しかし私は、この本の主役である忘れ去られたカルト詩人のように何かを探し求めている訳ではなかった。私は、メキシコ人の目を通してキューバを眺め、ほんとうの祖国の姿を確認したかった。そして、私にはそれができた。改めてキューバは複雑な島だと思う。しかし、誰もが情熱的で、何事もなく出国できないところは(メキシコに)よく似ている。出国前に、1人の友人が、「メキシコをどう思う?」と私に聞いた。私はしばらく考えて、 「スパイシー!感電して、喜びと激痛で涙が出るほど辛いスパイスのような国だった」と答えた。「じゃあ、キューバは?キューバをどう思う?」と彼は聞いた。「… キューバ?そうね、キューバはほろ苦い国ね…」と私は答えた。

禁じられた行動

ヨーロッパは、キューバと何が違うのだろう? まず臭いや温度が違う。そして、行く場所によって聞こえてくる音も違う。ヨーロッパの冬の灰色の空も川の流れが作るコントラストもとてもユニークだ。では、私にとって何がそんなに新鮮なのだろう? 私は旅を楽しみ、初めて出会った人たちと握手をしながら、そう自分に問いかける。それは、おそらく音楽や急停止する路面電車の音、あるいは歩道沿いに積もった雪や春を待ちかねた花の蕾が霜の中から顔を出している風景のせいに違いない。しかし、どうしてそんなに不思議に感じられるのだろう? 時を知らせるために1時間毎にきっかりと教会の鐘が鳴り響き、家並みはオールドハバナの街が新しく思えるほど古い。

しかし、走っている車も少なく型は古く、WiFi信号でインターネットに接続できる場所もほとんどないのには本当に驚いた。キオスクに新聞が溢れていることはなく、棚にも十分に商品が置かれているわけでもない。そして、地下鉄のプラットホームには我が物顔で犬がうろついている。奇妙に感じるのは、ほとんど列車が来ない鉄道の駅員の親切さや、壁から突き出ているゴシック様式の怪物の爪や鋭い歯でも、味の良さよりむしろ体を温めるために飲むホットワインのせいでもない。こんな気分は生まれて初めてだ。おそらく10年以上も旅をしなかったら、こんな気持ちにはならなかっただろう。それほど今私が訪れている国々はキューバとは違っていた。

一番違っているのは、一々許可をもらう必要がないことだろう。私は、最初の飛行機を降りたら、誰かにうるさく「それはだめだ!」と警告されると思っていた。私は、監視員に「ここで写真を撮ったらだめだ」と言われるのではないかと内心びくびくしていた。怖い顔をした警官が近づいてきて「身分証明書を見せろ!」と叫び、役人が「ここに入るな!」と言って私を通してくれないと思っていた。しかし、キューバのように、彼らは私を取調室に連れて行くことはなかった。だから、私にとって大きな違いは、美味しいパンや長い間食べられなかった特大のローストビーフでも、耳慣れない他国の言葉でもなかった。そんなことではなく、私にとって大きな違いは、ここでは私は永久に無法者のレッテルを貼られて監視されていないということだった。なぜならキューバでは、私は私の行動を影で監視している彼らが、いつ私に向かって「止めろ!」と言って警告の笛を吹くのかといつも怯えていたのだから。

時代遅れの拒絶行為

すべてブログに書いているわけではないので、おそらく誰も知らないだろうが、私が生まれて始めて拒絶行為を目にしたのは5歳の時だった。借家住まいの私たち子供(二人姉妹)にとって、それはとても衝撃的な出来事だった。私たちは、狭い廊下の手摺りの上から階下を凝視した。隣の部屋のドアの周りで、人々が拳を上げて叫んでいた。子供の私たちには、一体何が起こったのか分からなかった。それからどうなったのか? 手摺の冷たさと叫んでいた人たちの姿がかすかに記憶に残っているだけだ。何年も後になってから、ようやく私は万華鏡のように、子供のころの記憶を詳細に思い出すことができた。そして、それがマリエル港から移住しようとしていた人たちに対する暴力行為だったと分かった。

それ以来、私は何回か拒絶行為を経験した。誰が犠牲者で、誰が傍観者か?あるいは誰がジャーナリストで、誰が虐待者なのか?私には、はっきり分からなかった。私は、今でも政治犯として投獄された者の妻たちが作った反政府組織「Ladies in White」に対する酷い暴力行為を覚えている。人々は容赦なく私たちにまで唾をかけたり、髪の毛を引っ張ったりした。しかし、私にとって、昨夜のブラジルでの出来事は前代未聞のことだった。フェリア・デ・サンタナで開かれたダド・ガルヴァオ監督の映画の上映会を妨害した過激派のピケは、キューバ政府を無条件で支持する者より酷かった。例えば、彼らは色刷りの紙を配って嘘八百を並べてたて、私をマニ教と同じ異端者だと決めつけた。彼らは、私に反論する機会さえ与えず、まるで台本を読むように同じ文句を繰り返すばかりだった。彼らは、叫んだり、妨害したり、時には暴力をふるうこともあった。そして、キューバでも言わないようなスローガンを合唱したりした。

しかし、エダーゴ・サプリシー上院議員の助けもあり、また私がそんな雰囲気の中で平静を保っていたので、何とか議論を始めることができた。私には、彼らがプログラムされたロボットのように大声で同じ文句を繰り返すだけだとわかった。だから、だから私は割り切って会議を楽しむことができた。彼らは熱い議論を展開し、私は笑顔でそれに対応した。彼らが個人的に私を避難しようとしたので、私は私個人より重要なキューバのことについて議論しようとした。彼らは私に意見を言わせないようにしたが、私は話し続けた。彼らは命令されて行動していたが、私は拘束されない自由主義者だ。それは1980年にキューバで扇動された拒絶行為とまったく同じだった。だから議論が終わった夜、私は過激主義の亡霊と戦った後のように疲れ果ててしまった。ただひとつ違っていたのは、今私はこのような行動を起こさせるメカニズムを知っているということだった。ハバナの革命広場に行けば、それらをコントロールする強大な権力(内務省)があるのが分かるだろう。

ブラジル、ああ! ブラジル

旅行日記を書くのは、ナイトクラブで数学のテストの勉強をするのと同じくらい難しい。キューバを出発してから、目に映る新しい現実を心に留め、私はこの旅を個人的に楽しむべきか、それともジャーナリストのように起こっていることを逐一伝えるべきかジレンマに陥っていた。しかし、この慌ただしい旅行の中で、とても両方をするのは無理だ。そこで、私は行く先々の旅の印象を書きとめることにした。旅先での出来事や経験したことを自由に、時には断片的に書いていきたい。

私が最初に驚いたのは、ハバナのホセマルティ空港の入国審査ブースを通り抜けた時だった。突然何人かの乗客たちが近付いてきて、共に喜びを分かち合った。旅先のパナマで出会ったベネズエラ人の人たちもとても親切にしてくれた(自国で問題になるから、一緒に写真を撮ってフェイスブックに載せないようにと言われたが)。

その後、私は大きな飛行機に乗り換え、精神的にも肉体的にもさほど圧力を感じることのないブラジルに向けて飛び立った。それは、まるで今まで息が詰まるどん底の生活に甘んじていた者が、ようやく思いっきり息をすることができた瞬間のようだった。

レシフェ空港で、私は沢山の人たちの出迎えの抱擁を受けた。彼らは長年、私が国境を越えて旅行できるよう支援を続けてくれていて、沢山の花や贈り物を持ってきてくれた。もちろん、私を侮辱するグループもいたが、私に発言の機会を与えてくれて本当にうれしかった。私は「いつかキューバ人も、報復を受けることなく、このような公の場で自分の思うことを喋ることができるようになることを夢見ています」と言った。私にとって最高の贈り物は、一緒になってモノクロの絵を描いてくれた島の人たちからのものだった。後になって、私は削除や検閲を受けることなく、インターネットのページを見てようやくそのことを知った。

今までのところ、私は順調に旅を続けている。様々の愛の贈り物をくれたブラジルの人たちに感謝し、私はここでの沢山の素晴らしい出来事を伝えたい。

女優アナの「ふり」をする演技力

「誰もこれ以上‘ただ’ではやらないよ」。これは、今年キューバで一番流行ったコメディー映画の主役アナの台詞だ。ダニエル・ディアーズトレス監督の「La pelicula de Ana」は、キューバ映画報道協会の2012年長編映画最優秀作品賞に選ばれた。しかし、そのような協会その他の賞を独占しただけでなく、この映画は人々の圧倒的な支持を受け、今や映画館は爆笑と喝さいに包まれている。主役を演じるローラ・デラ・ウーツは、子供向けのB級冒険映画や主婦向けのよろめきドラマに出演している売れない脇役女優アナの人生を演じている。物質的に困窮し、特に冷蔵庫を買いたい衝動に駆られた彼女は、オーストリア製作のドキュメンタリーで売春婦を演じることに同意する。役を得るために、アナはお決まりの売春婦のイメージを徹底的に誇張して演じ、最高の演技と絶賛される。

映画は、まるで鏡のように、真実と嘘、感動とわざとらしさを重ねて映し出す。ユーモラスでおどけた会話でさえ、日々を生き延びる戦いのようにドラマは展開する。アナが完全に知っていると思っていた世界は酷く複雑で、突然彼女を打ちのめし、落ち込んでしまう。彼女は、誇張したアドリブの台本を使って近所の人たちを撮影した映画が嘘八百だと家族にも悟られないようにする。そしてとうとう彼女は、自ら海外のプロデューサーの期待に答えて、世界を股に掛ける映画監督になる。しかし、彼女は経済的に苦しくなるばかりで、普段は化粧もせず、映画の世界とはまるで違う生活を送らなければならない。

「La pelicula de Ana」は、私達に「女性」、「国」、「人間」そして「羞恥心」について考えさせる。それは、別人を装っている私たち皆が感じているきまり悪さだ。旅行者が写真を撮ってチップをくれるだろうと、好きではないのに葉巻を吸っている男がいる。見せかけのイデオロギーで偽装した役人は、マスク越しに素顔が覗いている。そして、そういった「ふり」をしている者の中には、どっちが嘘でどっちが本当の話か区別がつかなくなっている者もいる。私達はアナのように、撮影が終わって化粧を落としても、演技をし、「ふり」を続けなければならないだろう。

キューバに麻薬常用者はいないのか?

私の左目は、かなり重症の角膜炎を起こした。それは学生寮の衛生環境の悪さと、酷い結膜炎の治療を受け続けてきた結果だった。複雑な治療が必要だと言われたが、1カ月間目薬をさされただけで、私の眼は一向に良くならなかった。白ペンキの壁や明るい太陽を見ると、目に燃えるような痛みを感じた。本の文字はかすんで見えなかった。そして、自分の指の爪さえ判別できなかった。ある時、真向かいのベッドで眠っていたヤネットが、そっと私に教えてくれた。「彼らは、あなたの薬を盗んで、他の瓶に詰め替えて興奮剤に使っているのよ。」と、彼女はシャワーを浴びながら囁き声で言った。それから、私は毎晩ロッカーを確認した。そして、それが本当だと分かった。なるほど、私の角膜が少しも良くならないのは、寮の仲間たちが私の目薬に水を混ぜていたからなのだ。

キューバの多くの十代の若者たちは、地平線に向かって両手を広げ、粘土の道を蒼い象に乗って旅をする夢を見る。そして窓を飛び出し、学校で教えられた倫理観に囚われて生活する両親の家から逃げ出したいと思っている。夜毎、少年たちは、スポーツ広場に行ってトランペット(ベラドンナ)の花を煎じて安っぽい麻薬を作っていた。二年生も終わりに近づくと、田舎の高校では大麻の粉を吸引したり、「大麻草」を持ってくる生徒もいた。そんなことをするのは、ほとんどエル・ロメリラのスラムに住んでいる者たちだった。午前中の授業で、大麻を吸引して性的衝動が高まった彼らは、先生が書いた黒板の文字も見ずに、突然ヘラヘラ笑い始めた。既に大麻に病みつきになっているクラスメートは、「麻薬を続ければ疲れないし、お腹も空かないさ」と言った。幸い、私は彼らの誘惑に負けることはなかったが。

下校時には、さらに多くの者が校舎の外で麻薬にふけっていた。近所のサンレオポルド界隈では、青ざめて虚ろな眼をした常習者が大麻吸引後に突然攻撃的な態度をとるのをよく見かけた。21世紀になって、人々の逃避志向は、メルカ、マリファナ、コカイン(1グラム50ペソ=50ドル余りもするが、キューバの医師の月給は約20ドル)、EPO錠、ピンクとグリーンのパーキシノール、クラック、ポッパーズ等の向精神薬の麻薬市場を拡大した。購買層は様々だが、ほとんどの目的は日常からの逃避、楽しみ、羽目を外したり息抜きをするためだ。彼らは大麻を吸い、酒を飲み、煙草を吹かして、一晩中ディスコで踊り明かす。そして、幸福の絶頂が過ぎて寝入った彼らが観ていたテレビの画面でラウル・カストロが断言する:「キューバに麻薬常用者は一人もいない」

テレスール対衛星放送受信アンテナ

1本の古いテレビアンテナが窓から突き出ている。しかし、それはただの見せかけの疑似アンテナだ。実際に、テレビ信号は通りから家の屋根に引かれたケーブルで送られてくる。闇で1カ月10ペソ(約10ドル余り)を支払った家族は、これで漫画やホームドラマ、そしてミュージカルを観ることができる。そして、衛星放送受信アンテナの所有者だけが、いつでも観たいチャンネルを選ぶことができる。彼はリモコンを手に自由にチャンネルを変え、彼のアンテナを視聴する者が観る番組を決める。彼は、問題が起きないように政治的な話題を避け、現実を受け入れるショー番組を好む。結果的に、彼は毎日の退屈な仕事から逃れられる、文化的な価値はなくても面白い、現実逃避の番組を選ぶ。

私達はまた、この「事業者がチャンネルを選ぶテレビ番組」のライバル局でもある、キューバの国営テレビへ衛星を通して送られるベネズエラのテレスールの番組を観ている。長年キューバでは、この多国放送のチャンネルを3時間だけ観ることができたが、これからは情報、教育、犯罪事件、そしてプロスポーツまで、13時間半の生放送を観られるようになるらしい。 しかし、確かに画期的なことではあるが、思想的偏向は避けられないだろう。テレスールは、キューバのラジオとテレビの番組制作の放送倫理に従わなければならない: 反米・左派的な中南米(ラテンアメリカ・カリブ)諸国8カ国が加盟している米州ボリバル同盟は、世界中が地獄だと言っていることを天国のように伝えている。

幸い、私たちはこれらの2つのオプションだけを選ぶ必要はない。今や、「リークした」衛星テレビや思想的に偏ったテレスールの番組を観ることが私たちの唯一の選択ではない。最近数カ月の間に、ドキュメンタリーや連続番組を提供する他の市場が広がっている。(あらゆるジャンルの番組を集めた)一種のオンデマンドのテレビ番組が、ハードドライブやUSBフラッシュメモリー等のデジタル・メディアを使って市場に出回り始めている。国営テレビも番組制作を多様化して拡大していかないと、新しい競争相手に視聴者を奪われてしまう。そして最終的に、他局から番組を借りたり、著作権を侵害して番組を集めて、個性のない退屈な番組を放送することになってしまうだろう。