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幸せのこころとかたち
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幸せのこころとかたち
時間は前に向かって進んでいるから、未来に予定があっても、今時間が空いていると、まだまだ時間があるなと思って、ダラダラと時間を過ごしてしまう。
でも、そうやって時間を過ごすと、どれだけ時間があっても、何もすることなく、次の予定の時間になっています。
結局、時間がどれだけあっても、どうでもいいことに時間を使い、時間を有効に使えないまま、歳を取ってゆきます。
だからこそ、時間がある時には、終わりを意識して過ごすことが大事だと思います。
今時間があるなと思って、時間を過ごすのではなく、次の予定まで、あと一時間あると思って、この一時間の中で何をしようかと残りの時間を意識する。
そして、途中、時間を確認して、あと何分あるなと思って、残された時間を意識することが大切だと感じます。
時は流れるように過ぎてゆく。
その時間を今を視点に生きるのではなく、次の予定まであと何分と意識して時間を過ごせたら、もっと時間を大切にできるのではないかと思いました。
お釈迦様は阿弥陀仏に救われた人を我が良き親友なりと言われました。
これはお釈迦様は人々の救済の為に人生を捧げられましたが、まわりを見渡した時に、世の中にはたくさんの人がいるのに、私と同じように仏法を命として、仏法を教え、人々を救ってゆく人が余りにもいないことに寂しさを感じられたからではないかと思います。
まるで仏法に命をかけている人はこの世界の中で自分だけではないか、私は孤独な旅を続けているのではないかと感じられたのだと思います。
そんな中、阿弥陀仏に救われた人は、この釈迦と同じように人々を救う為に苦しむ人たちの中に飛び込み、教えを説いてゆかれる。
ああ、私と同じ気持ちで、生きている人がいるのだなと感じられて、この人こそ、この釈迦の親友であると言われたのだと思います。
この世にお釈迦様と同じ志で生きる人は少ない。
だからこそ、阿弥陀仏に救われた人はいつも孤独な道を進むのであり、お釈迦様はこんな道を進まれたのだなと感じながら生きてゆくのだと思います。
仏法を伝えてゆく道は孤独な道。自分の気持ちを分かってくれる人はほとんどいない中、お釈迦様のみ跡を慕い、この道をすすんでゆくしかないのだなと思わずにおれません。
人生生きていれば、様々な問題にぶつかります。多くの人は、そこから見える現実から逃げ、正しい所に立って安心しようとします。
しかし、現実から逃げて、正しい所に立っても、何も真実は知らされない。現実から逃げず、向き合った時、自分の醜さ、汚さが知らされます。
そんな自分は誰からも見捨てられるのでは無いかと不安になり、でも、見捨てようとすると、苦しくなり、誰かが助けてくれる訳では無い。
そんなありのままの自分が見せつけられて、そんな自分をこのままでもいてもいいんだと許してゆく道が、仏法の求道。
それは自分の思い通りに善人になれる訳では無い。それどころか、本当に自分のことしか考えない、自分勝手な自分が見えて苦しくなる。
どこまで自分が何か別の完璧な存在になる訳では無い。自分は自分のまま生きてゆくしかない。
そんな自分をこの自分で生きてゆくしかないなと受け入れた時、心が解放される。
頑張っていたこと、もがいていたこと、それらすべて悪人に落ちないようにしていただけ。
それが落ちるしかないと知らされた時、それでもここにいてもいいと浮かぶ。
それはそこまで進んだ人しか分からない世界であり、もがいた末に知らされる真理でもあるのです。
いつも私たちは頭の中で色々なことを考えている。それが邪魔して、自分が本当は何を思っているか気づかない。
だから、心がけて、頭で思っていることを書いてゆく。書くことで、また、次から次へと、吹き上がってきたら、それも書いてゆく。
そして、いつも頭の中を空っぽにしておく。
空っぽにすると心の変化がよく見える。
自分から思いが起きた時に、それがどんな思いだったか気づくようになります。
そうなることで、自分はどんな人間か、分かるようになります。
人は自分を知ることで安心する。穏やかな日々を送ることができるようになるのです。
苦しみは吐き出すことによって楽になる。でも、吐き出しても、それで相手を傷つけてしまうと、傷つけた自分が許せなくなって自分を責めてしまう。
自分を責めることは自分を傷つけること。
自分を傷つけると、そこから悲しみが吹き上がる。その悲しみに目を向けず、放置すると、悲しみが苦しみに変わる。
結局、苦しみを吐き出した筈なのに、また苦しみを生み出してしまう。
大事なことは苦しみを吐き出した時に、相手を傷つけたとしても、自分を責めることなく、相手に謝ること。
謝ったら大抵のことは許してもらえる。
許してもらうことによって傷つけた自分も許せる。そして、自分の心も楽になるのです。
苦しみは溜め込まずに吐き出すことが大事。その時、できることなら、相手を傷つけずに大事なものを受け取ってもらうように大事に相手に受け取ってもらうことが大切なのですね。
苦しみは自分が生み出すだけではありません。人から穢れをもらっても、心が苦しくなります。
そんな時ほど、私は仏法の教えを話したり、書いたりしています。仏法という教えを表現することで、自然と仏の世界を念じている。
不思議なことですが、仏の世界から文章が溢れてくる。そして、自分の心を浄化し、苦しみの心を幸せな心に変えてくれる。
だから、苦しみがなければ、教えを書きたいと思っても、筆が進まない。
スマホを置いて、十分も二十分も書けずにおることがあります。
苦しみこそ教えを説くガソリン。
人が嫌がる苦しみも私にとっては喜びの種。
苦しみが幸せに変わることこそ、人生の生き甲斐を感じています。
そして、そのまま、まわりの人を浄化してゆきます。
苦しみを幸せに変える阿弥陀如来の不思議なお力を日々感じながら生活しているのです。
人は穢れると心が不安に包まれる。その不安を誤魔化す為に、いつも欲に走るか、心を忙しくさせて何かをしている。
穏やかな日を望みながら、時間ができると、それを何かで埋めずにはおれない。
何もしないでいると、心がいたたまれないほど、不安だからです。
しかし、そうやって不安を誤魔化している間に人生が終わってしまう。
幸せになる為には、一度心が不安に包まれることになれなければなりません。
私たちは不安になると誤魔化そう誤魔化そうとしてしまうが、苦しみから離れる為には不安の中に飛び込んで、不安の原因を見つめることが大切。
不安は誤魔化しても解決しない。原因を突き止め、心の種まきを変えることが解決するのです。
その為にもまずは不安を誤魔化す生活から離れたいですね。
悲しみは無視されると怒りに変わる。だから、怒りを起こすのは、相手をこっちに振り向かせたいから。でも、怒りを起こすと、相手は責められたくないから、離れてゆく。
結局、求めているものが得られない結果となってしまう。
仏教ではこういうのを愚痴と言います。
愚痴とは智慧がないこと。智慧がないから、求めているものが得られず、逆に離れてゆき、たとえ力ずくで手に入れても心は満たされないのです。
幸せは智慧がないと得られないのですね。
親鸞聖人が関東におられた時、高熱で寝込まれたことがありました。そして、しばらくして、私は間違っていた、私は間違っていたと言われ、布教に出かけられたのです。
世の中には苦しんでいる人がたくさんいます。そんな人たちに仏法を説いて苦しみを抜いてあげたいと思っても、真実を聞いてくれる人は少なく、誤った考えを持った人が自分の考えは正しいと思って、蔓延っています。
このような現状の中、自分の力は余りにも無力であり、自分が頑張ることで何も変わらないと思うこともあったと思います。
それが高熱となって親鸞聖人を悩ましたのです。
しかし、悩んで悩んで悩んだ末、親鸞聖人は、私は間違っていたと気づかれたのです。
私のやることはたとえどんなに無力であっても、仏法を伝えてゆくしかない。ただそれだけなんだと気づかれ、そして、布教に出かけられたのです。
自分のやることは仏法を伝えることしかない。たとえ分かってくれる人がいなくても、それでも一人でも聞いてくれる人がいたら、教えを説いてゆく。
それが救われた人の生きる道なんだと思いました。